震災以来

三月の震災以来、日々、様々な思いが心に浮かんできます。
それは言葉で正確に表せるものでもなく、すぐに霧に包まれて翳んでしまったり、
ふわふわと風に流されるようにして、見失ってしまう。
想像を遥かに超える事態に直面して、多くの人が悲しみ、絶望という
深い闇の中に居る。あの瞬間から時が止まってしまったかのように、
もしかしたら、日を重ねる度に闇は深くなっているのかもしれない。
わたしは東京に居て、以前と変わらない生活を続けることが出来ている。
想像を遥かに超える出来事を、こうして想像しているに過ぎない。安全な場所にいて。
今、わたしたちに何が出来るのか、ということが最も重要な課題となり、
問われ、叫ばれている。
誰もが安全な未来を求めている。誰もが明日のために今出来ることを
真剣に考えて、正しいと考えたことを多くのひとに伝えようとしている。
そして、時に意見の対立が起る。
何が正しくて、何が間違っているのか……。
問題が大きくなればなるほど、わからなくなってしまう。
次々と出てくる“専門家”の言葉も、それが本当に正しいことなのか
“専門家”意外にはわからない。
“わからない”という感覚は“無関心”とは対局の位置にあると思うのだけれど、
結果的に、わからない=無関心、のようにとられることもあるのだろう。
霧に包まれて、流されて行く思考のなかで、繰り返し思う。
「願うことは、愛するひとが、心煩うことなく穏やかに過ごせること」
人々の心の根底にあって支えとなっている想いは、
とてもシンプルなことなのではないだろうか。
その平凡で飾り気の無い想いを、かたちにするためには、
どうしたらよいのだろう。