Pienso, luego existo. (Cogito ergo sum)我思うゆえに,

「来年は海外で生活しようと思ってます、」
先日、あるお客様からそんなお話を伺いながら色々と考えました、
将来の構想は人それぞれで「ああ、そういう生き方もありだよね、」
って思う事はまだまだ たくさんあるのですね。
世界的に経済が不安定になり、身近なところでも
リストラやボーナスのカット、残業による負担などの話題を耳にする事が
多くなっているような気がします。
正社員として働いている人でも、安定した生活をおくるためには
残業を余儀なくされ、会社と家との往復で一日のエネルギーを使い果たしてしまっているような
何か満たされない気持ちを抱いている人も少なくはないように思います。

もっと他のところに自分の居場所はあるんじゃないだろうか?
自分のための時間もなく、今のままの生活を続けていていいのだろうか?
いったい、何のために働いているんだろう…
そんな考えが頭を過ることはありませんか?

いったい自分は何処へ向かっているんだろうか、
自分の心が満たされるものは何だろう、それは何処にあるんだろうか?
そんなものは本当に存在するのか?
理想ばかりを追いかけて、現実の出来事、人や物の本質を見失ってはいないだろうか。

もっと突き詰めて考えていくと、、
今、自分の目に見えている世界は本物なんだろうか?というSF的な疑問が
ぼんやりと浮上してくるのです。

例えば、映画「マトリックス」のように現実の世界だと思っていたものが
実は仮想世界であるかもしれない… なんてことを言うと、
「頭、大丈夫?」と思われるでしょうね。
そこまで極端な発想には行き着かないとしても、
自分の思考は、現実の世界を正確に認識できているのだろうか?
ということは やはり頭のどこかにあります。
自分の目に映る物が、他の人に見えるものと同じなのか?
自分が「赤」と思っている色が、他の人が認識している「赤」(色の本質としての)
と同じなのか、違っているのかは確認のしようのない疑問。

そこに疑いを持っている自分が存在していることが、疑いの無い事実だとしても
そんなことは、日常ではたいした意味を持たないように思う。

そしてもうひとつは、物事に対する心の反応の精度の疑問。
人間は未来を想像することや、過去の出来事を記憶しておくことが出来るので、
目の前に広がる「三次元の世界」に時間軸を加えた「四次元の世界」を見ているとも考えられる。
今、目に映っている世界は、過去・現在・未来と止まる事なく進んで行く時空の一瞬一瞬を
スライスした断面を見ているようなもの、であって、
この断面というのは、その人の経験や思考によって微妙にずれるのではないだろうか?
もしくは歪むことがあるんじゃあないだろうか。

何か人生の岐路に直面したときに、人は自分の過去を振り返り、
未来を予測して、今自分の置かれた位置を確認する。
過去・現在・未来と続く「時間のチューブ」を、今という位置で輪切りにしてみる、
はたして、その切り口はシャープに切り取られているだろうか?
歪んでいたり、位置がずれていないだろうか?

また、その切り口から見える風景は時間軸が少し圧縮された形で、
ちょうど、ピカソのキュビスムの絵のように、いくつもの表情が一つの面に
折り重なるように見えてくるのではないかと思います。
そのいくつもの側面を客観的に見る事が、どこまで出来るのだろうか、、
「今」という断面の切り出し方によって、そこから続く未来は様々に変化して行くのだから、
今ここにいる「この私」と「10年後の私」は
やはり「私」には変わりないけれど、「10年後の私」は幾通りも存在する。
人が未来を想像するとき、心の中にこの四次元の世界は存在する、
そしてそこから続くパラレルワールドも。
思考が創り出す世界、心が創り出す四次元の世界は、
自分の理想の未来像も創り出す事ができる、
そして実現することも。
「思考は現実化する」ということは本当だと思います。
一方で、心が創り出す四次元の世界は、
簡単に現実の世界を歪ませてしまうことも…

さて、疑いの無い事実はどこにあるのでしょうね。

※タイトルとかなりズレてしまいましたね。コギト命題の話だと思われた方、ゴメンナサイ。