赤い長靴/江國香織
これは結婚10年目の”日和子”と”逍三”の物語。
日和子はおとなしいけれどよく笑う女性、
ごく普通の主婦がそうするように、日々の出来事を
逍三に話して聞かせる。
ごく普通の主婦がそうするように、日々の出来事を
逍三に話して聞かせる。
逍三はぬうぼうとした電信柱のような男、
驚く程マイペースなのか、コミニュケーション能力に欠けるのか、
日和子の問いかけに答える事は少ない。
驚く程マイペースなのか、コミニュケーション能力に欠けるのか、
日和子の問いかけに答える事は少ない。
結婚して10年、子供のいない二人暮らし、
まわりの人から見れば、ごく普通に、幸せに暮らしている夫婦。
子供を持つ家庭から見れば むしろ、二人の時間を楽しんでいる
仲の良い夫婦に見えることだろう。
まわりの人から見れば、ごく普通に、幸せに暮らしている夫婦。
子供を持つ家庭から見れば むしろ、二人の時間を楽しんでいる
仲の良い夫婦に見えることだろう。
夫婦として同じ家で暮らし、二人で食事をして、
休みの日には揃って買い物や、旅行にも出掛ける。
休みの日には揃って買い物や、旅行にも出掛ける。
それでも、お互いに知らないことも多いのだ。
夫は会社で誰と会い、どんなことを話しているのか、
妻は今日 何処へ行き、何を見ているのか…
夫は会社で誰と会い、どんなことを話しているのか、
妻は今日 何処へ行き、何を見ているのか…
別々に過ごす時間の中でこそ、相手のことを想う、
目の前にいるときよりも、むしろ冷静に、情熱的に。
目の前にいるときよりも、むしろ冷静に、情熱的に。
江國香織さんの作品には独特な空気が流れていて
不思議な空間へと引き込まれていく感じがする。
夢の中の出来事のようなシュールな感覚、
それでいて、登場人物の心理描写は恐ろしく現実的だ。
時が止まったかのように静かに、淡々と、心の奥のある
”ちいさな波”が描かれて行く。
不思議な空間へと引き込まれていく感じがする。
夢の中の出来事のようなシュールな感覚、
それでいて、登場人物の心理描写は恐ろしく現実的だ。
時が止まったかのように静かに、淡々と、心の奥のある
”ちいさな波”が描かれて行く。
僕はこの作品を読みながら、著者自身の結婚生活を綴った
エッセイ集『いくつもの週末』の一説を思い出していた。
エッセイ集『いくつもの週末』の一説を思い出していた。
「 私たちは、いくつもの週末を一緒にすごして結婚した。
いつも週末みたいな人生ならいいのに、と、心から想う。
でもほんとうは知っているのだ。
いつも週末だったら、私たちはまちがいなく木端微塵だ。」
いつも週末みたいな人生ならいいのに、と、心から想う。
でもほんとうは知っているのだ。
いつも週末だったら、私たちはまちがいなく木端微塵だ。」
~ 今はまだ一緒にいる、いつか別れるときがくるまでは ~
そんな気配が ”江國作品”には流れているように思う。
あたりまえのように、ずっと一緒にいることも現実、
いつか確実に、別々の人生を歩むことも、また現実として受け止める。
あたりまえのように、ずっと一緒にいることも現実、
いつか確実に、別々の人生を歩むことも、また現実として受け止める。
矛盾する二つの感情をリアルに感じているからこそ、
普段気づくことのない”心の波”が見えて来るのかもしれない。
普段気づくことのない”心の波”が見えて来るのかもしれない。
『赤い長靴』に象徴される、二人の絆と歪み。
最後には必ず辿り着く「ほんとうのこと」
最後には必ず辿り着く「ほんとうのこと」
日和子の言葉は逍三には伝わらない、
言葉は伝わらなくても、日和子の心は逍三に伝わっているのかも知れない。
何度も読み返すうちに、逍三のイメージが変わって行くから不思議だ。
言葉は伝わらなくても、日和子の心は逍三に伝わっているのかも知れない。
何度も読み返すうちに、逍三のイメージが変わって行くから不思議だ。
~ 笑うことと泣くことは似ている ~
「どうしてあなたには言葉が通じないの?」
そう呟き、くすくすと笑いながら、
日和子はこの先も、逍三と暮らしていくのだろう。
そう呟き、くすくすと笑いながら、
日和子はこの先も、逍三と暮らしていくのだろう。